超約版|論語と算盤

第二章|立志と学問──大きな志を立てる

誰が仕事を与えるにしても、経験のない者に初めから重い仕事を与えるものではない。

秀吉にしても、信長の草履取りの仕事から始めたのである。なるほど一角の人物につまらない仕事ばかりさせておくのは、利益にならないが、その与えられた仕事に不平をもち、つまらないと軽蔑する者はこれまただめだ。

小事を粗末にするような人物に重大事を成功させることはできない。これは上に立つ者も同じである。

与えられた仕事に全力で取り組まない者は、運を開くことはできない。


人間にはいかに円くても、どこかに角がなければならぬ。あまり円いとかえって転びやすいことになる。

私が信じてみずから正しいとするところは、いかなる場合においても、けっしてほかにゆずることをしない。ここが私がいわゆる円満ではないところだと思う。

人には老いたると若いとの別なく、これくらいの円満でないところがあってほしいものだ。そうでないと、人の一生もまったく生き甲斐のない無意味なものになってしまう。

第三章|常識と習慣──健全な常識を身につける

およそ人として社会を渡っていくに際し、常識はどの地位においても必要で、また、いずれの場合にも欠けてはならないものだ。ならば、常識とはどのようなものであろう。これを学問的に解釈すれば、「智、情、意」すなわち知恵と情愛と意志がそれぞれバランスを保って発達し、言動や挙動すべてに中庸を保たせるものである。一般の人情に通じ、よく世間の習わしを理解し、ほどよく処置できる能力ともいえる。

知恵は物事を識別する能力だが、善悪や利害を識別する能力に欠けていれば、その人の学識がいかに高くても、宝のもち腐れに終わってしまう。知恵の弊害として、ややもすれば悪巧みにたけ、ごまかしを生み出す場合がある。さらに自己本意で極端に走りがちだ。

そこで情愛をうまく塩梅しなければならない。情愛は一つの緩和剤で人生のことすべてに円満な解決をもたらしてくれる。だが情愛の欠点は感情に走りすぎることだ。これを抑制するものは強固なる意志よりほかはない。意志は精神のなかで本源である。これがあれば、人生においては最も強みのある者になる。

強い意志をもち、その上で聡明な知恵を加え、これを調節するに情愛をもってする。この三者を適度に発達させていって、初めて完全な常識が得られるのである。


習慣はただ一人の身に付いたものではなく、他人に感染するもので、ややもすれば人は他人の習慣を模倣したがる。よい習慣だけでなく、悪い習慣も同様なので、おおいに警戒しなければならない。

ここから推察するに、一人の習慣は世界の習慣ともなりかねない勢いである。


読書のみを学問と思ってはならない。すなわち勉強してこれを実践することであって、勉強が伴わないと知識もなんの効果ももたらさない。各自ただ一人のためではなく、社会のために、勉強の心掛けが大切である。

世の中で成功するための要素として、知識・学問が必要なのはもちろんだが、それだけでただちに成功できると思うのは、大きな誤解だ。

要するに、ことは日常生活にある。ゆえに私はすべての人に、普段から勉強を望むのだ。同時に、普段からいろんなことに対する注意を怠らないように心がけることを強調したい。

第五章|理想と迷信──主義を通しても心は新たに

単にその職分を務めていくというのは、決まりどおりに、ただ命令に従ってこなしていくということだ。

しかし趣味をもってあたるというのは、自分の心から、この仕事はこうしてみたい、こうしたならば、こうなるだろうというように、いろいろな理想や欲望をそこに加えて行うことだ。それが初めて趣味をもつということになると私は理解する。


孔子の言葉に「これをよく知る者は、これを好む者に及ばない。これを好む者はこれを楽しむ者に及ばない」とある。これは趣味の極致と考える。自分の職務に対しては、かならずこの熱い真心がなければならないのである。

第一〇章|成敗と運命──道理に従い価値ある生涯とする

人に頼ってばかりでは、自信が育たない。また、堅苦しい物事にこだわり、細かいことを気にしていては、溌剌とした気力がすり減り、進取の勇気をくじくことになる。細心にして周到な努力は必要だが、一方で大胆なる気力も発揮しなければならない。細心と大胆の両面を兼ね備え、溌剌と活動することで、初めて大事業を完成し得るものである。