限りある時間の使い方

イントロダクション

よく考えてみると、問題の根っこにあるのは「時間が限られている」という事実だ。

なぜそれが問題になるのかというと、限られた時間を有効に活用できていないからだ(もしも時間が無限にあるなら、フェイスブックで午前中を無駄にしても自己嫌悪に陥ることはない)。

状況を苦しくしているのは、やはり限られた時間を思うように活用できていないという感覚だ。

第1章|なぜ、いつも時間に追われるのか

時間を「使う」ようになった僕たちは、「時間をうまく使わなければ」というプレッシャーにさらされる。時間を「無駄に」すると、なんだがすごく悪いことをしたような気分になる。

やることが多すぎてパンクしそうなとき、僕たちはやることを減らそうとするのではなく、「時間の使い方を改善しよう」と考える。

もっと効率的に働こう、もっと頑張って働こう、もっと長い時間働こう。


時間を支配しようとする者は、結局は時間に支配されてしまうのだ。


時間をコントロールしようと思うと、時間のなさにいっそうストレスを感じる。自分には、限界がある。その事実を直視して受け入れれば、人生はもっと生産的で、楽しいものになるはずだ。

現実を直視することは、ほかの何よりも効果的な時間管理術だ。

限界を受け入れるというのは、つまり「何もかもはできない」と認めることだ。自分がやりたいことも、他人に頼まれたことも、すべてをやっている時間はない。絶対にない。だから、それを認めて生きる。そうすれば、少なくとも無駄に自分を責めなくてすむ。

タフな選択はいつだってやってくる。大事なのは、意識的に選択することだ。何に集中し、何をやらないか。どうせ全部はできないのだから、少なくとも自分で決めたほうがいい。

第2章|効率化ツールが逆効果になる理由

メールの場合、返信するたびに状況は悪化する。あるメールに返信すると、それに対する返信がやってきて、またそれに返信しなくてはならず、それにまた返信が...と無限に続くからだ。

あなたはメールの返信が早い人として有名になり、みんな急ぎの用事をどんどん送ってくるようになる。メールを処理することでメールがさらに増えるという悪循環を生む。

これがいわゆる「効率化の罠」だ。


やるべきことはいつだって多すぎるし、これから先もそれはきっと変わらない。

そのなかで心の自由を得るための唯一の道は、「全部できる」という幻想を手放して、ひと握りの重要なことだけに集中することだ。


すべてを完璧にやるためのテクノロジーは、結局のところ、やること「すべて」のサイズをどんどん大きくする。だからそれは、つねに失敗する運命なのだ。


とはいえ時間は有限なので、何かをするには別の何かを犠牲にしなくてはならない。

「その犠牲に見合うだけの価値があるだろうか?」と問うことをしないでいると、やることは自動的にどんどん増えるだけでなく、どんどんつまらなくて退屈なものばかりになっていく。本当は追加しなくていいことまで追加してしまうからだ。

あなたが有能だとわかると、誰かが自分の仕事をあなたにやってもらおうと考える。そしてあなたは、断れずについ引き受けてしまう。「他人の期待を無限に受け入れる容器」になってしまうのだ。


必要なのは効率を上げることではなく、その逆だった。すべてを効率的にこなそうとするのではなく、すべてをこなそうという誘惑に打ち勝つことが必要だったのだ。

やりたい誘惑を振りきり、あえて「やらない」と決めること。そのあいだにもメールや用事はどんどんやってくるし、そのうちの多くはまったく手がつけられないだろう。それでも、その不快感に耐えながら、本当に重要なことに集中するのだ。

第4章|可能性を狭めると、自由になれる

もっといい選択ができるかもしれないという可能性を残されたグループよりも、後戻りできない選択をしたグループのほうが、自分の選択に満足できたというわけだ。

世の中のさまざまな慣習も、実はこの洞察にもとづいてつくられていることが多い。結婚だってそうだ。

「幸せなときも困難なときも」一緒にいることを誓うのは、うまくいかなくても逃げださないと約束することで、より満足度の高い関係性を手に入れるためだ。その他の無数の可能性(どこかにいる理想の人)をあえて捨てたほうが、目の前の相手にコミットできて、結果的に幸せな生活を送ることができるのだ。

進むべき方向はただひとつ、自分が選びとった未来に向かって前進するだけだ。

第7章|時間と戦っても勝ち目はない

愛するパートナーとずっと一緒にいたいと望むのは当然だし、そのために相手を幸せにするような行動をするのはもちろん良いことだ。でも「絶対に相手を手放したくない」という考えに固執すると、人生はストレスの連続になる。

その不安から解放されるための秘訣は、直感に反するかもしれないけれど、「未来はけっして確実ではない」という事実を受け入れることにある。

どんなに必死に計画し、心配しても、未来について安心できるわけがない。すべてが確実にうまくいくことなんて不可能だ。確かな未来を求める戦いに勝ち目はないし、そんな戦いは今すぐやめたほうがいい。

過去を振り返ってみれば、未来をコントロールしようとする奮闘がいかに無意味であるかに気づくはずだ。未来が完璧に思いどおりになったことなんて、今までに一度でもあっただろうか。今ここにいる自分は、思わぬ偶然が積み重なった結果ではないのか。


「何が起ころうと気にしない」生き方とは、未来が自分の思い通りになることを求めず、したがって物事が期待通りに進むかどうかに一喜一憂しない生き方だ。

未来をコントロールしたいという執着を手放そうということだ。そうすれば不安から解放され、本当に存在する唯一の瞬間を生きられる。つまり、今を生きることが可能になる。

第9章|失われた余暇を取り戻す

でも本当は、余暇を「無駄に」過ごすことこそ、余暇を無駄にしないための唯一の方法ではないだろうか。

何の役にも立たないことに時間を使い、その体験を純粋に楽しむこと。将来に備えて自分を高めるのではなく、ただ何もしないで休むこと。

一度きりの人生を存分に生きるためには、将来に向けた学びや鍛錬をいったん忘れる時間が必要だ。怠けることは単に許容されるだけでなく、人としての責任だといっていい。


何らかの達成を目標とするのではなく、ただ活動そのものを楽しむこと。僕たちはそんな活動をもっと日々の生活に取り入れたほうがいい。

第10章|忙しさへの依存を手放す

本を読む時間なんかない、と人は言う。けれど、実際には、時間はあっても、読書に気持ちを集中できないだけだ。本当はただ、読書には時間がかかるという事実を受け入れたくないのだ。

時間をコントロールしたいという僕たちの傲慢さを、読書は許してくれない。無理に急いで読もうとしても、意味がすり抜けていくだけだ。

何かをきちんと読むためには、それに必要なだけの時間がかかる。それは読書だけでなく、嫌になるほど多くのことに当てはまる事実だ。

付録

「誰かと一緒にいて面倒くさいとか退屈だと感じたら、まずは興味を持ってみること」。思い通りにしようとか、自分の言い分を通そうなどと考えずに、「目の前の人は誰だろう、どんな人だろう」と考えてみることだ。

他人と一緒にいるかぎり、予測不可能なことは避けられない。だから、好奇心を味方につけたほうがいい。好奇心を持っていれば、相手の行動を自分の基準で判断せず、ニュートラルに受け入れることができるからだ。

逆に好奇心を持たず、相手が「こうすべき」と考えていると、つねに失望や苛立ちを感じることになる。