さようなら富士ゼロックス

さようなら富士ゼロックス

さようなら富士ゼロックス

富士フイルム富士ゼロックスの知られざる関係

富士ゼロックス富士フイルムゼロックス合弁会社であることを説明すると、大概の顧客は「へー、知らなかった」という反応を返した。最も多かったのが、富士通の関連会社であるという誤解で、次が日本のゼロックスだから象徴としての富士を冠したという思い込みで、いずれにしても富士フイルム富士ゼロックスが親子関係にあることを知っている顧客は極めて少なかった。


買収騒動が起きる20年前から、すでにして富士ゼロックス富士フイルムホールディングスが75%の株を有する、れっきとした連結子会社であったにもかかわらず、社員の気分的な立ち位置としては25%しか株を有していないゼロックス側にいた。

メーカーの衣を着た販売会社

企業にはそれぞれの歴史や成り立ち方がある。企業、もしくは会社は組織であっても存在ではない。本社ビルが赤坂に立っていても、それは単なるコンクリートの塊に過ぎず、株式市場に銘柄として登録されてはいても、実態としては存在していなのだ。つまり社会組織というのは便宜的に実在しているように見せかけた人間集団の化身だ。だからこそ独自の文化や社風が生まれ、それが次世代へと引き継がれていく。

コピー機は車ではない

富士ゼロックスの収益は必ずしも機械を販売することによって上がる、いわゆる箱売りによる収益を基盤としてはいなかった。たとえ新しいコピー機が売れなくても、貸し出している機械のレンタルサービス料金、あるいは機械を販売した後に発生しつづけるトータルサービス料金と呼ばれるメンテナンス及び消耗品契約が日銭を稼いでくれるからである。今でこそソフトウェアやアプリもパッケージ販売よりもサブスク販売が主流となったが、米国ゼロックスは半世紀以上前に、今のサブスク契約であるところのレンタル方式というビジネスモデルを始めていたのである。


富士ゼロックスの顧客は、レンタルサービス契約であれ、トータルサービス契約であれ、七人の侍によって強固に守られているとされていた。七人の侍とはセールスレップCSO、サービスエンジニア、スペシャリスト、テレフォンセンター、消耗品の定期自動配送の七つの機能のことで、富士ゼロックスと他社の最大のちがいは、これらのすべてがメーカーで直管理されていることだった。

リコーという宿敵

富士ゼロックスは米ゼロックス製の高速機を、規模の大きな企業にレンタルすることを販売戦略のトッププライオリティとした。企業の数は規模が大きくなればなるほど少なくなり、小さくなればなるほど多くなる。つまりコピー機の販売対象となる市場ピラミッドの上部から攻め下ったのが富士ゼロックスで、下部から攻め上がったのがリコーだった。

タコ足食い

デジタル化は予想外の収益性悪化をもたらした。それまでセールスは販売台数で業績を評価されていたが、評価指標が売上金額に変わったのはこの頃だ。

そして経営陣は考えた。次なる一手はカラーしかない。先に書いたように富士ゼロックスは開発陣のがんばりで、デジタルカラーの分野で先行したキヤノンを抜き、競合メーカーを一歩リードしていた。このタイミングを逃したら次はなかった。2005年前後の10年間、富士ゼロックスは全社、カラーに染まった。

先祖がえり

ひとつだけ明確にしておきたいことがある。それはサービスマネジメントは今に始まったものではなく、それどころか富士ゼロックスのビジネスにおける原点ですらあったという事実である。わたしも先輩も後輩も、新人研修時代に徹底して教え込まれたのは「富士ゼロックスは機械を売っているのではなく、あくまでも機械をサービスの一部として提供している」というコンセプトである。サービスは富士ゼロックスの歴史そのものなのだ。ただ時代と市場が要求しているサービス内容が複雑化、多様化してきているだけのことで、業務改善の手助けをすることで対価を得る、という肝腎な一点は何も変わっていない。確かに「コピー機そこに置いといてくれればそれでいいよ」という顧客も少なくはなかったが、それよりもはるかに多くの顧客が富士ゼロックスに何かを期待してくれた。この顧客との距離の近さが富士ゼロックスのセールスの持ち味だと信じている。


ついにメーカーとしての富士フイルムビジネスイノベーションを販売会社としての富士フイルムビジネスイノベーションジャパンの二手に分かれることになったのだ。先祖がえりするのだ。販売会社として始まった富士ゼロックスはメーカーとなって成長を遂げ、分身が富士フイルムビジネスイノベーションジャパンという名の販売会社へと戻っていく。

今、わたしの目には、太く立派な二本の幹が、寄りそうでもなく、離れるでもなく、並んで空に向かって伸びている姿が見えている。きっとうまくいく。

富士ゼロックスの体質

  • 以下の5つの要素が富士ゼロックスの文化、社風としての社員の思考と行動を決定づけてきた:
    1. 戦争を知らない企業である。(社風への影響度5ポイント)
    2. 設立当初の約10年間、実際にはメーカーではなく販売会社だった。(社風への影響度20ポイント)
    3. 開発製造と販売手法のベースを米ゼロックスに倣った。(社風への影響度30ポイント)
      • メーカーが世に出す製品はすべからくトライアンドエラーの結果としての集積体であり、この知見こそがメーカーの財産であり、次の新製品を生む地盤となるわけだ。
      • そういった意味で富士ゼロックスは精密機器メーカーとして、今や一流といっても良いかもしれない。
    4. 販売後にも毎月売上が上がってくる。(社風への影響度40ポイント)
      • 箱売りの「売れた売れない」だけの会社に比べると緊張感を欠くという点で富士ゼロックス独特のぬるま湯文化の温床となった。
      • そしこのぬるま湯体質は保守性となって社内に蔓延した。
      • 富士ゼロックスの間では「官公庁体質」と呼んでいたが、ちょっとしたルールを変えるだけのためにも、とてつもない時間と回り道が必要だった。
    5. ゼロックスというブランドに多少なりともプライドがある。(社風への影響度5ポイント)

赤と緑は企業文化の交差点

富士ゼロックスという会社の強みを製品の品質や営業力と思っている人は多いが、じつのところ最大の強みは、欧米が先行する新しいビジネスやコンセプトを、競合メーカーに先んじて米ゼロックスを通して手に入れることができたという一点に尽きる。


富士フイルムビジネスイノベーションと同ジャパンが成長するためには、ふたつの文化の融合が鍵となるはずだ。幸いなことに富士フイルムビジネスイノベーションと同ジャパンは、今まさにゼロックス富士フイルムのふたつの文化のど真ん中に立っているのだから。健闘を祈る。