嫌われる勇気

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嫌われる勇気

第一夜|トラウマを否定せよ

アドラー「経験それ自体」ではなく,「経験に与える意味」によって自らを決定する,と語っているところに注目してください.たとえば大きな災害に見舞われたとか,幼いことに虐待を受けたといった出来事が,人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません.影響は強くあります.しかし大切なのは,それによってなにかが決定されるわけではない,ということです.われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって,自らの生を決定している.人生とは誰かに与えられるものではなく,自ら選択するものであり,自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです.


われわれはみな,なにかしらの「目的」に沿って生きている.それが目的論です.


過去にどんな出来事があったとしても,そこにどんな意味づけをほどこすかによって,現在のあり方は決まってくるのです.


再びアドラーの言葉を引用しましょう.彼はいいます.「大切なのはなにが与えられているかではなく,与えられたものをどう使うかである」と.「なにが与えられているか」にばかり注目するのではなく,「与えられたものをどう使うか」に注目するのです.


つまり人は,いろいろと不満はあったとしても,「このままのわたし」でいることのほうが楽であり,安心なのです.


賞に応募して,落選するならすればいいのです.そうすればもっと成長できるかもしれないし,あるいは別の道に進むべきだと理解するかもしれない.いずれにせよ,前に進むことができます.いまのライフスタイルを変えるとは,そういうことです.応募しないままでは,どこにも進めません.


第二夜|すべての悩みは対人関係

「人間の悩みは,すべて対人関係の悩みである」.これはアドラー心理学の根底に流れる概念です.もし,この世界から対人関係がなくなってしまえば,あらゆる悩みも消え去ってしまうでしょう.


主観にはひとつだけいいところがあります.それは,自分の手で選択可能だということです.自分の身長について長所と見るのか,それとも短所と見るのか.いずれも主観に委ねられているからこそ,わたしはどちらを選ぶこともできます.

われわれは,客観的な事実を動かすことはできません.しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことができる.そしてわたしたちは主観的な世界の住人である.


人は誰しも,優越性の追求という「向上したいと思う状況」にいる.なんらかの理想や目標を掲げ,そこに向かって前進している.しかし理想に到達できていない自分に対し,まるで劣っているかのような感覚を抱く.

アドラーは「優越性の追求も劣等感も病気ではなく,健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っています.劣等感も,使い方さえ間違えなければ,努力や成長の促進剤となるのです.

自らの劣等感を取り除くべく,より前進しようとする.現状に満足することなく,一歩でも先に進もうとする.もっと幸せになろうとする.こうした劣等感のあり方には,なんの問題もありません.


同じ平らな地平に,前を進んでいる人もいれば,その後ろを進んでいる人もいる.そんな姿をイメージしてください.進んできた距離や歩くスピードはそれぞれ違うけれども,みんな等しく平らな場所を歩んでいる.「優越性の追求」とは,自らの足を一歩前に踏み出す意思であって,他者よりも上をめざさんとする競争の意思ではありません.

誰とも競争することなく,ただ前を向いて歩いていけばいいのです.もちろん,他者と自分を比較する必要もありません.

健全な劣等感とは,他者との比較のなかで生まれるのではなく,「理想の自分」との比較から生まれるものです.

われわれが歩くのは,誰かと競争するためではない.いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ,価値があるのです.


大切なのはここからです.「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば,世界の見え方はまったく違ったものになります.世界を危険な場所だと思うこともなく,不要な猜疑心に駆られることもなく,世界は安全で快適な場所に映ります.


相手が闘いを挑んできたら,そしてそれが権力争いだと察知したら,いち早く争いから降りる.相手のアクションに対してリアクションを返さない.われわれにできるのは,それだけです.

人は,対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間,すでに権力争いに足を踏み入れているのです.

わたしは正しい.すなわち相手は間違っている.そう思った時点で,議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます.つまり,「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり,最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう.これは完全なる権力争いでしょう.

そもそも主張の正しさは,勝ち負けとは関係ありません.あなたが正しいと思うのなら,他の人がどんな意見であれ,そこで完結するべき話です.ところが,多くの人は権力争いに突入し,他者を屈服させようとする.だからこそ,「自分の誤りを認めること」を,そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです.誤りを認めること,謝罪の言葉を述べること,権力争いから降りること,これらはいずれも「負け」ではありません.


第三夜|他者の課題を切り捨てる

あなたは大きな勘違いをしている.いいですか,われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです.他者の期待など,満たす必要はないのです.

他者からの承認を求め,他者からの評価ばかりを気にしていると,最終的には他者の人生を生きることになります.

承認されることを願うあまり,他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる.つまり,ほんとうの自分を捨てて,他者の人生を生きることになる.

そして,覚えておいてください.他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです.相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても,怒ってはいけません.それが当たり前なのです.


われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から,自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです.

そして,他者の課題には踏み込まない.それだけです.

およそあらゆる対人関係のトラブルは,他者の課題に土台で踏み込むこと──あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること──によって引き起こされます.課題の分離ができるだけで,対人関係は激変するでしょう.

誰の課題かを見分ける方法はシンプルです.「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください.


他者の課題に介入すること,他者の課題を抱え込んでしまうことは,自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます.もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら──その悩みは対人関係なのですから──まずは,「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう.そして他者の課題は切り捨てる.それが人生の荷物を軽くし,人生をシンプルなものにする第一歩です.


自らの生について,あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」,それだけです.一方で,その選択について他者がどのような評価を下すのか.これは他者の課題であって,あなたにはどうにもできない話です.

あなたは,他者の視線が気になっている.他者からの評価が気になっている.だからこそ,他者からの承認を求めてやまない.それではなぜ,他者の視線が気になるのか?アドラー心理学の答えは簡単です.あなたはまだ,課題の分離ができていない.本来は他者の課題であるはずのことまで,「自分の課題」だと思い込んでいる.あなたの顔を見た他者がどう思うのか.これは他者の課題であって,あなたにどうこうできるものではありません.

まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう.そして課題の分離をしましょう.どこまでが自分の課題で,どこからが他者の課題なのか,冷静に線引するのです.そして他者の課題には介入せず,自分の課題には誰ひとりとして介入させない.これは具体的で,なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた,アドラー心理学ならではの画期的な視点になります.


「自由とは,他者から嫌われることである」

あなたが誰かに嫌われているということ.それはあなたが自由を行使し,自由に生きている証であり,自らの方針に従って生きていることのしるしなのです.

すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は,不自由きわまりない生き方であり,同時に不可能なことです.自由を行使したければ,そこにはコストが伴います.そして対人関係における自由のコストとは,他者から嫌われることなのです.

他者の評価を気にかけず,他者から嫌われることを怖れず,承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり,自分の生き方を貫くことはできない.つまり,自由になれないのです.


ただ課題を分離するのです.あなたのことをよく思わない人がいても,それはあなたの課題ではない.そしてまた,「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから,好きにならないのはおかしい」と考えるのも,相手の課題に介入した見返り的な発想です.

もし,わたしの前に「あらゆる人から好かれる人生」と「自分のことを嫌っている人がいる人生」があったとして,どちらか一方を選べといわれたとしましょう.わたしなら,迷わず後者を選びます.他者にどう思われるかよりも先に,自分がどうあるかを貫きたい.つまり,自由に生きたいのです.


第四夜|世界の中心はどこにあるか

「他者からどう見られているか」ばかり気にかける生き方こそ,「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです.あなただけでなく,「わたし」に執着している人は,すべて自己中心的です.だからこそ「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えなければならないのです.


あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない.自分の足で立ち,自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない.「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく,「わたしはこの人になにを与えられるのか?」を考えなければならない.それが共同体へのコミットです.

所属感とは,生まれながらに与えられるものではなく,自らの手で獲得していくものなのです.


誰かにほめられたいと願うこと.あるいは逆に,他者をほめてやろうとすること.これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です.あなたにしても,縦の関係に生きているからこそ,ほめてもらいたいと思っている.アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し,すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています.ある意味ここは,アドラー心理学の根本原理だといえるでしょう.


課題の分離について説明するとき,「介入」という話をしましたね.他者の課題に対して,土足で踏み込んでいくような行為のことです.

それでは,なぜ人は介入してしまうのか?その背後にあるのも,じつは縦の関係なのです.対人関係を縦でとらえ,相手を自分より低く見ているからこそ,介入してしまう.介入によって,相手を望ましい方向に導こうとする.自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる.

もちろんここでの介入は,操作に他なりません.子どもに「勉強しなさい」と命令する親などは,まさに典型です.本人としては善意による働きかけのつもりかもしれませんが,結局は土足で踏み込んで,自分の意図する方向に操作しようとしているのですから.


いちばん大切なのは,他者を「評価」しない,ということです.評価の言葉とは,縦の関係から出てくる言葉です.もしも横の関係を築けているのなら,もっと素直な感謝や尊敬,喜びの言葉が出てくるでしょう.


人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ,自らの価値を実感できる.これがアドラー心理学の答えになります.

共同体,つまり他者に働きかけ,「わたしは誰かの役に立っている」と思えること.他者から「よい」と評価されるのではなく,自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること.そこではじめて,われわれは自らの価値を実感することができるのです.いままで議論してきた「共同体感覚」や「勇気づけ」の話も,すべてはここにつながります.


もしも誰かひとりとでも横の関係を築くことができたなら,ほんとうの意味で対等な関係を築くことができたなら,それはライフスタイルの大転換です.そこを突破口にして,あらゆる対人関係が「横」になっていくでしょう.

たしかに,年長者を敬うことは大切でしょう.会社組織であれば,職責の違いは当然あります.誰とでも友達付き合いをしなさい,親友のように振る舞いなさい,といっているのではありません.そうではなく,意識の上で対等であること,そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです.


第五夜|「いま、ここ」を真剣に生きる

課題の分離もそうですが,「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです.われわれは「なにが与えられているか」について,変えることはできません.しかし,「与えられたものをどう使うか」については,自分の力によって変えていくことができます.だったら「変えられないもの」に注目するのではなく,「変えられるもの」に注目するしかないでしょう.わたしのいう自己受容とは,そういうことです.

交換不能なものを受け入れること.ありのままの「このわたし」を受け入れること.そして変えられるものについては,変えていく"勇気"を持つこと.それが自己受容です.


仮にあなたが,対人関係の基礎に「懐疑」を置いていたとしましょう.他者を疑い,友人を疑い,家族や恋人までも疑いながら生きている,と.

いったいそこから,どんな関係が生まれるでしょうか?あなたが疑いの目を向けていることは,相手も瞬時に察知します.「この人はわたしのことを信頼していない」と,直感的に理解します.そこからなにかしらの前向きな関係が築けると思いますか?われわれは無条件の信頼を置くからこそ,深い関係が築けるのです.


「仕事」とは,会社で働くことを指すのではありません.家庭での仕事,子育て,地域社会への貢献,趣味,あらゆることが「仕事」なのであって,会社など,ほんの一部にすぎない.会社の仕事だけしか考えないのは,人生の調和を欠いた生き方です.


あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは,あなたではありません.それは他者の課題であって,あなたが介入できる問題ではない.ほんとうに貢献できたかどうかなど,原理的にはわかりえない.つまり他者貢献していくときのわれわれは,たとえ目に見える貢献でなくとも,「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を,すなわち「貢献感」を持てれば,それでいいのです.

すなわち「幸福とは,貢献感である」.それが幸福の定義です.


もし,ほんとうに貢献感が持てているのなら,他者からの承認はいらなくなります.わざわざ他者から認めてもらうまでもなく,「わたしは誰かの役に立っている」と実感できているのですから.つまり,承認欲求にとらわれている人は,いまだ共同体感覚を持てておらず,自己受容や他者信頼,他者貢献ができていないのです.


普通であること,平凡であることは,ほんとうによくないことなのか.なにか劣ったことなのか.じつは誰もが普通なのではないか.そこを突き詰めて考える必要があります.

自己受容は,その重要な一歩です.もし,あなたが「普通であることの勇気」を持つことができたなら,世界の見え方は一変するはずです.

普通を拒絶するあなたは,おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう.普通であることとは,無能なのではありません.わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです.


人生とは,連続する刹那なのです.「いま」という刹那の連続です.われわれは「いま,ここ」にしか生きることができない.われわれの生とは,刹那のなかにしか存在しないのです.

それを知らない大人たちは,若者に「線」の人生を押しつけようとします.いい大学,大きな企業,安定した家庭,そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと.でも,人生に線などありえません.

もしも人生が線であるのなら,人生設計も可能でしょう.しかし,われわれの人生は点の連続でしかない.計画的な人生など,それが必要か不必要かという以前に,不可能なのです.


人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ.過去や未来が見えてしまう.いや,見えるような気がしてしまう.しかし,もしも「いま,ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら,過去も未来も見えなくなるでしょう.

われわれはもっと「いま,ここ」だけを真剣に生きるべきなのです.過去が見えるような気がしたり,未来が予測できるような気がしてしまうのは,あなたが「いま,ここ」を真剣に生きておらず,うすらぼんやりとした光のなかに生きている証拠です.

人生は連続する刹那であり,過去も未来も存在しません.あなたは過去や未来を見ることで,自らに免罪符を与えようとしている.過去にどんなことがあったかなど,あなたの「いま,ここ」にはなんの関係もないし,未来がどうであるかなど「いま,ここ」で考える問題ではない.「いま,ここ」を真剣に生きていたら,そんな言葉など出てこない.

ライフスタイルは「いま,ここ」の話であり,自らの意思で変えていけるものです.直線のように見える過去の生は,あなたが「変えない」という不断の決心を繰り返してきた結果,直線に映っているだけにすぎません.そしてこれから先の人生は,まったくの白紙であり,進むべきレールが敷かれているわけではない.そこに物語はありません.

「いま,ここ」にスポットライトを当てるというのは,いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくことです.


あなたがどんな刹那を送っていようと,たとえあなたを嫌う人がいようと,「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ,迷うことはないし,なにをしてもいい.嫌われる人には嫌われ,自由に生きてかまわない.

そして,刹那としての「いま,ここ」を真剣に踊り,真剣に生きましょう.過去も見ないし,未来も見ない.完結した刹那を,ダンスするように生きるのです.誰かと競争する必要もなく,目的地もいりません.踊っていれば,どこかにたどり着くでしょう.